2015年8月11日 第69回 木村塾やってみよう会 会合報告

第69回 木村塾やってみよう会
UBI株式会社 竹内泰光社長の我が人生を語る

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 改めて自分の人生を振り返ると「出来過ぎの人生だった」の一言につきる。 もともと高い志があったり、人より卓越した能力があったわけではない。それが、今や仕事では自己資本30億以上の会社の代表を務め、私生活ではマラソンや登山に打ち込める環境が出来るなんて昔は想像もできなかった。どういう要因でそのような人生になったのか。

 考えてみるとやはり、木村会長との出会いが大きかったと思う。木村会長と出会う前の自分と、出会った後の自分とどのように違ったのか。まず大きな違いは、木村会長と出会って目標をたてるようになった事だ。以前の自分も目標こそ立ててはいたものの、その目標はその時の自分が達成可能な低い設定だった。しかし会長から与えられるビジョンや目標は自分の想像をはるかにこえる高い設定であった。そのことは自分の潜在能力を最大限引き出す大きな要因になったと思う。結果というものは人それぞれ、個人差もあると思う。しかしその差よりも「何を目指して生きてきたかが」がむしろ大切であるし、また、その目標に対する習慣の差が結果を大きく変えるのではないかと思う。

 洋服店を営む両親のもとに昭和38年12月阿部野に生を受け、その後江坂へ引っ越し、幼少から青年期を過ごした。父は広島の農家の7人兄弟の三男坊。難聴の長男と結核を煩う次男を含む大家族を経済的に支えるため中学を出て大阪に上京、そして洋服店で修行しながら実家に仕送りをしてきた苦労人。母も同様、馬を使った運送業を営む裕福な家庭で育ったが知り合いの借金の保証人になり家や財産を差し押さえられ大阪に出稼ぎへ。1970年万博前の江坂は活況を呈しており、その洋服店でも20、30万する洋服が飛ぶように売れる時代、決して家庭は貧しくなかったと思うが、がむしゃらに働く両親の下で、幼少の頃から「自分の事は自分でやりなさい」と教育を受けた。  その為だろうか、自分には「親に頼る」という発想自体がなかった。小学校6年生の頃にもなると新聞配達をして自活を始めていた。大学入学前、両親から家族で広島に戻る事を打診されたが、自分で学費を稼ぎながら大阪で生活して行く事を選択。夜間の大学に通いながら、朝は新聞配達、日雇いの人夫、深夜レストランとアルバイトに明け暮れる日々。バイクを買う目標もあり、自分は学生時代から目標が出来れば、ひたむきに頑張る性格だったのかなと今になって思う。しかし、仕事と学業の両立は想像より大変で大学を中退。その後、周りの友人達のようにちゃんとした職業に就きたい。一番稼げる職業は何か?トラック運転手をしながら不動産の仕事に就こうと、宅建の免許を取るため、運転席でテープがすり切れるまで聞き猛勉強した。

1竹内社長

 そして、木村会長50歳前、バブル前の勢いのある時代の(株)関西ホームに入社。最初の配属店鋪では一番の成績を残し、北巽駅前店の店長に昇進。しかし・・・。この北巽駅前店は人通りの少ない店鋪で全く売上が上がらない。店長ながら歩合給与で今までの営業マン時代の給与の半分に激減。そんな時に、彼女の妊娠(現・奥様)が発覚。家庭を持つ為に、自社が所有する保証金無しの安くボロボロの物件を契約。結婚生活のスタートをココから始めようと部屋を案内するも、こんな家嫌だ!と涙ぐむ奥様。 その涙に5年以内に新築を買ってあげよう!と決意。そしてある日、会長に呼び出され、谷町九丁目本店の店長に抜擢される。なぜ自分が・・。もっと適任者がいるのに・・。しかし、ここで頑張ればマイホームが買える!その思いでチャレンジさせてもらった。  そこでまず取り組んだのが店鋪の風土を変える事だった。やくざとの関わりを徹底的に排除し、トイレを綺麗に、そして店の近隣の清掃活動も行った。経営的には売上をあげる事よりも固定費を下げることに注力し利益を増やしていった。

 そのころ、谷町九丁目店に足が遠のいていた木村会長もよく来てくださる様になり人間関係が出来始めた。人間関係ができると課題を与えてくれるのが木村会長。バブル後の処理もあり木村会長から「競売の仕事をやってみないか」と。競売で仕入れた古い物件をリニューアルして販売する仕事は、一人でやっていたのにも関わらず、本店の稼ぎよりも多くなった。当時既にマイホームは購入し、次なる自分の目標は年収を1000万にすることだった。店長職では中々手に届かない数字。そこで、この競売物件のリニューアルを目的とした会社を社内ベンチャーで立ち上げた。  初期は1000万〜1500万程の小さな物件を手がけたが、やがて4億〜5億の収益不動産物件等のプロジェクトにも挑戦していった。年間1500物件を視察し目利きをつけていった。その頃、ターニングポイントとなる出来事があった。ある競売物件を2.8億で落としたは良かったが次順位の額が2.2億であった事を知る。6千万の高買いに恐る恐る香港にいた木村会長に報告した。木村会長は一瞬の間のあと、「それでやれるんか」と。やれると答えると「お前が出来る言うのやったらやってみろ」と一切怒られなかった。もし、あのとき怒られていたらその後の自分はなかったと思う。その物件は誰も手を付けたがらないようないわくつきの物件であったことを後になって知るも、最終的には思った通りの結果を出す事ができた。

 そういったことをクリアし結果を残していったこともあり、木村会長からアメリカ視察に誘って頂いた。そこで色々な会社本体の経営についての意見を求められた。例えば、現在社員が25人いる本体のマンション管理事業について、君なら何人でやれるか?その問いに「一人でできます」と答えた。  その発言にインパクトがあったのか、視察後、当時自己資本3億の会社を2010年に10億にする、というミッションとともにUBIの社長に抜擢される。このままの事業内容であるとこのミッションは達成出来ない。さらに管理の分野においては月間管理料900万に対して4500万の滞納金が出ていた。まずは、この膿みをとって、事業の中心を競売物件のリニューアル事業にシフトさせて行く事を考えた。最初の半年は、社内あげて滞納が常習化している入居者に対して徹底して督促をおこなった。6月就任し半年たった初めての正月明け、督促に応じない入居者に社員がナイフで斬りつけられるという事件が起こった。毎日見舞いに病院へ通った。その社員の親には本当に申し訳なく、経営をやっているとどういうまさかが起こるかわからないと痛感。同時に管理業務を分社化し、収益不動産のリニューアル事業へ特化していった。

 しかし、05年構造計算書偽装問題(いわゆる姉歯事件)が起き、中古物件の購入に対し銀行融資がつかずこのビジネスモデルも難しくなってきた。そんな折、木村会長のバブルの体験談を聞いた企業から事業再生の相談を受けるようになり、自社の事業再生のノウハウをベースに不動産のリースバックをベースにした新しい事業再生モデルを提唱していった。この新しいビジネスモデルは自社の社会的信用が不可欠。会社を北浜から梅田に移しIPOを目指した。大阪市のビジネスモデルコンテストで見事優勝し、その事がきっかけで東京の不動産投資会社から10億の出資を受け、2010年自己資本10億の目標を時期を待たずして、2007年20億を達成した。そして、さらなる目標として2030年自己資本200億を打ち立て2008年東京へ進出。その矢先、リーマンショックが起こる。その処理で20億に戻すのに5年かかったが、4年半前に企業相談がきっかけで知り合ったソーシャルレンディング「MANEO」を買収。当時4億の貸残高残高の会社だったが現在の貸付残高は85億に。最近では大手の商社等の出資の打診も増え 大きく打ち立てた自己資本200億の目標も早くも視界に入ってきた。

 このように自分は木村会長とともに高い目標を設定し、そのビジョンに向かってやれる方法をその時々で試行錯誤しクリアしてきた。よく目標を達成するにあたり、人からその方法を質問される事が多い。しかしながら、方法よりも達成する意思・決意が大事だ。そして、決意が固まれば、それを公言し自分にプレッシャーを与え負荷をかける(公言力)。そして自分に対して期待をしてくれる応援団を持つ(期待に依存する)。自分にとって一番喜んで欲しい人は木村会長だ。そして、とにかく途中であきらめない、突き抜けるまで、結果が実感されるまで頑張ってみる事が大切だと思う。2年前実母が世界遺産に登録された富士山に登りたいというのでトレーニングを指南。全く山登りの経験はなかったが素直に実践した結果、3ヶ月のトレーニング期間で登頂することが出来た。母はその後も同じトレーニングメニューをこなし現在一番の健康を維持している。このことからも決意し、結果や効果が現れるまで努力する事で人生が変わって行く事を強く実感した。

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 仕事ではめったに褒めてもらわない木村会長から2回だけ褒められたことがある。社員全員が六甲縦走で10時間を切ったときと富士登山レースに完走した時だ。その時から山にのめり込み始めた。自分はエベレスト登頂を今後の人生目標にしているがが、それも木村会長に一番喜んで欲しいから。目標達成のための決意も自分だけの為にやるなら気持ちも折れてしまう。誰かを喜ばせたい。自分が頑張る事で喜んでくれる存在が不可欠だ。この会に集まっている方たちは「より以上を目指して」努力されていると思う。その為にはやはり目標が大事だと思う。自分には、木村会長と出会った責任があり、それは、皆様がともに成長し「より以上を目指して」生きて行く事のお手伝いをする事だと思っている。目標が達成すればまた、新しいビジョンを持って挑戦して行く。そのビジョンに向かって生きて行く途上で人生を終えられるならば素晴らしいと思う。

レポート:中島大介