2015年6月23日 第66回 木村塾やってみよう会 会合報告

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あと一粒の涙で ひと言の勇気で
願いがかなう その時が来るって
僕は信じているから 君もあきらめないでいて
何度でも この両手を あの空へ~ ♪

冒頭、ファンキーモンキーベイビーズの歌「あとひとつ」のメロディーとともに、手品家のステージに颯爽と現れた喜田さん。

「ありのままの自分」をテーマに、話が始まった。

喜田さんは、1973(昭和48)年生まれの41歳だ。宝塚市で和菓子屋を営む両親の間に、姉1人兄2人で三男として生まれた。

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8歳から少年野球を始めた。最初は嫌だったが徐々に仲間とする事を楽しく感じるようになった。中学はサッカー部で大変しごかれた。3年生で顧問の先生から「お前は団体競技には向いてないと言われ大きなショックを受けた」。それがキッカケとなりヤンキーに走ることになる。

高校入学後2か月で停学を経験。放浪生活が始まる。
2年生の夏からホストクラブで働き、毛皮・宝石など7つのアルバイトを掛け持った。ホストクラブでの仕事は非常に楽しく、ナンバーワンになり、マネージャーにもなった。しかし、不規則・呑み過ぎなどがたたり吐血、腹膜炎。彼女も失踪した。
その後、自宅に戻り、交通事故にも遭いながらも一旦高校卒業を目指したが、一度の遅刻により退学となる。

友人との約束で、夜間高校に編入し、20歳で卒業。
当時の趣味はスケートボードだった。スポーツショップとスポンサー契約する程の腕前だった。

21歳で阪神淡路大震災を経験。実家半壊。バイト先全壊。はじめて、自分の人生を見つめ直すきっかけとなった。
自分は何がしたいのかと考え、元々やりたかったファッション関係を目指して行く。
神戸アメリカ村の洋品店で働くようになり、8か月で支店の店長に抜擢された。
その5坪の店は、年商1億になった。
しかし喜田さん曰く「ここでも調子に乗り、神戸・大阪で遊び倒す」事になり25歳で退職勧告を受ける。

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アメリカ・カナダ等をしばらく放浪し、現地で買ったものをフリーマーケットに出して生活した。店舗出店を試みたが難しく、ケーブルテレビ会社に入社する。
当時のケーブルテレビ会社は、どんどん契約がとれ、すぐに高給が得れるようになった。そこで喜田さんはまた勘違いをする事になる。

後輩を連れて飲み歩き、生活が派手になった。儲け話に手を出し借金500万。素行も悪くなり、ある日突然リストラされた。まわりから誰もいなくなった。

借金することでお金の勉強を始めた。そのプロセスで、自分を世間の役に立たせることはできないかと考え、中小企業診断士を目指して行く。その中で自己破産も受け入れ、30歳で免責を得ることになる。

しかしまた警察沙汰を起こしてしまう。20日間留置場に入れられた。
また、お父さんは会社を整理し、実家は売られ、家族はバラバラになった。

その後、派遣社員をしながら中小企業診断士をめざし学校に通い始め、
支えてくれた彼女との結婚を目指した。

IT企業に就職。その会社の社長・専務が日創研で学んでいる人だった。
その関係で木村会長を知り「やってみなわからん!やったことしかのこらん!」の言葉を知った。心臓を撃ち抜かれた位、衝撃的だった。

その後、結婚し子供も生まれた。家も買った。

商談相手が、その商談の5時間後に交通事故で死んだ。
それを機に、自分は「考えているだけだ」「口先だけだ」
「やってみなわからん!やったことしかのこらん!」と一念発起し起業を決意した。

2009年2月6日、海外ブランドの洋服・雑貨のWeb通信販売を手掛ける「TrueS」を創業。現在7年目。まだ赤字だが、10年後の全国主要都市5店舗の実現とフランチャイズ展開をビジョンに掲げ、稀に見る激しく人間らしく人間臭く、そして、正直で波瀾万丈な発表を締めくくった。

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【木村会長の総括】

・人生を棚卸をすると人生の宝が見つかる。
・人生の折り返しは50歳だ。人生は100年と仮定する。
・人生はやったことしかのこらん!50過ぎて気が付いた。
・人生には数字が必要だ。皆 数字に弱い。
・論語と算盤のバランスが必要だ。
・ビジョン・目標の数字は、丸い数字₍キリのいい数字₎でないといけない。
・売上げを目標にしてはいけない。目標数字は、自己資本で表現すること。
・1億円の自己資本₍貯金₎が溜まれば、2乗・3乗の世界を創れる。

・喜田さんの今までの人生は「辛抱」が足らなかった。
・喜田さんは、50歳で2,000万円の貯金を創ること!(家族4人で一人500万ずつ)

レポート:福澤 伸雄