2016年10月11日 第95回やってみよう会 会合報告

株式会社マジックポット 手品屋三宮店店長 忠本典大さん

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 発表終了後の安堵感もつかの間、木村会長節全開で押し寄られて「50歳になったら貯金が5000万!」宣言をしていた忠本典大さんの我が人生を語る!

 今年33歳の“ノリさん”、同い年の愛妻なっちゃんも聴きに来られて、我が人生を振り返ります。このお二人、職場結婚されましたが初対面の印象は「幸薄そう」「気が強そう」というもので、よくよくご縁があったんでしょうね。

 尼崎市立花でパチンコ店を経営する父親の元裕福な生活をしていたノリさん。小学五年生の時に阪神淡路大震災により父親の事業が全壊し、生活が一変してしまいます。父親は一ヶ月か二ヶ月に一度の帰宅となり、在宅時間は1から2時間程度。また母親に反発する期間も長かった、と反省も込め回顧してました。

 母親のすること全てを否定していたノリさんが、感謝の心を持てるようになったきっかけは日本創造能力研究所の研修でした。ご飯を作ってくれたこと、育ててくれたこそ、生まれてきたこと、そして感謝できることに感謝できるノリさんに生まれ変わり今ではお母さんとの関係も良好。奥様がお母様を大切にしてくださることにも感謝の日々だそうです。一方のお父様とは、この10年ほとんどお会いになっていないとのこと。

 いろんな事情で建築家になるために大学進学するという思いを諦め、工業高校を出て、男が料理できたらかっこいいだろうなという気持ちから調理師を目指し、その道に進みます。一方で幼い頃にMr.マリックを見て不思議だな、これまたかっこいいだろうな、と思って始めたマジックへの興味も捨てがたく二足のわらじを履く形でプロマジシャンとしてのキャリアもスタートさせました。

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 居酒屋さんに自らアプローチし、マジックを披露することで売り上げの10%をもらう約束にこぎつけます。閑古鳥が鳴く店だったので初日の手取りは500円。それが半年後には1日3万円をもらえるようになったそうです。快挙!きっかけは「目の前のお客様を楽しませる」これに徹底することと気づいたことです。どんな仕事にも共通することかもしれませんね。

 プロマジシャンとして自由気ままにフリーで働いていた時、お客様にマジックそのものを否定、反発され、心が折れそうになることも多々あったそうですが、目の前のお客様を楽しませる、この思いがノリさんを支えていました。そんなノリさんの人生を変えたのが、マジックポット前田社長との出会いでした。今から4年前のことです。

 フリーから勤め人へと。気ままに月4日ほど働いて20万円程度は稼げていた暮らしから、働きづめの生活が始まり慣れるのに四苦八苦。とうとう体が悲鳴をあげ救急車で運ばれたこともあったそうです。今では、この生活にも慣れ、夢や目標があればモチベーションが上がり毎日働くことが楽しくて仕方がないと笑顔で語っていました。

 フリーの時は全て自己責任。自分で考え、答えを出すのに何日もかかったことが、マジックポットで仲間を得て、チームで取り組むことで数分で解決する。困った時は誰かが助けてくれる、そして自分も誰かを助けることができる、チームの良さを実感していました。マジックを見せて終わり、ではなく今では三宮店店長として店舗運営、人財管理まで責任感と充実感を持って取り組んでおられます。マジックポットの売りは、お客様に元気をお届けすること。そのためには全員で知恵を絞り、マジックだけでなく接客、サービス全てに心を配っておられます。マジックバーちゃうやん、という非難があってもしっかりした想いがあるから大丈夫。

 もともとは根暗で引込み思案だったという個人プレイヤーのノリさんが、チームの中で周りのために考えられる自分に成長したと実感されています。価値観や考え方は簡単には変えられない、変えたければ違う場所に飛び込む勇気を持つこと、とご自身の経験から仰っていました。明るくなりたければ、明るい人のところに飛び込む、周りが変わると自分が変わり、自分が変わると周りが変わるんだ、と自信を持って私たちに伝えてくださいました。

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 ノリさんの夢、ビジョンは冒頭の50歳で貯金が5000万円。その前に34歳になるこの1年間に、三宮店の売り上げ目標達成、全店の中で1番動員する、1番面白い店舗を目指すそうです。36歳ではマジッックポットの役員に就任。40歳では年収1000万円、貯金500万円。そのためには月に7万弱貯めます、目標も細分化すると現実味が出ますね、と語っていました。40歳の頃には子供も二人欲しい、今頑張っているけどなかなか出来ないのでアドバイスが欲しいとのことで、仲間からは基礎体温と逆立ちという回答がありました。ぜひ実践して良いパパになって欲しいですね。マジックを通じて社会貢献をしたい、そんな夢も語られていました。以前は小児ガンの子供たちにマジックを披露して喜ばれていたそうで、最近は足が遠のいていましたがまたぜひ子供たちの笑顔をマジックで広めていきたいそうです。

レポート:松岡美奈子

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2016年9月27日 第94回やってみよう会 会合報告

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我が人生を語るのは、井上 武俊さん。
ここ数年木村塾には通われており、
井上さんのことをご存知な方も多いと思います。
まず、プロフィールをざっとご紹介させていただきます。


昭和42年4月23日 京都府生まれ
昭和55年4月 大阪府私立高槻中学入学
昭和61年4月 早稲田大学商学部入学
平成5年4月 大阪の金属部品メーカーに経理部配属
平成7年4月 妻と結婚
平成17年4月 株式会社アジレック創業
平成19年5月 株式会社アジレック廃業
平成19年5月 大阪の樹脂製品加工メーカーに財務マネージャーとして就職
平成23年4月 タイへ海外赴任
平成27年10月~ 民泊事業を行う


もうこの時点で結構山あり谷ありっぽい人生というのが伺えますね。
そして話は始まりました。
井上さんは、京都生まれで3人兄弟の末っ子。
教育熱心なご家庭で育たれ、ご長男は京都大学に進学。
井上さんも小学校5年から中学受験の塾に行かされ、
好きだった野球をやめるはめに、、、
更に志望校の受験に失敗し、高槻中学に入学。
(失敗って言ってもこの時点ですごいのですが)
男子校で気楽に学生生活。
部活では硬式テニス部。
部活動とゲームセンター通いに明け暮れる毎日でした。
大学受験は現役で早稲田大学に入学。
ここでも志望校には合格できず。
(何度も言いますが、すごいことなんですが)

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大学生活では全く勉強せず、起業していたこともあり、留年することに・・・
大学2年のころにイベントサークルのスタッフとして活動しており
広告代理店の方々と知り合い、イベント開催、人材派遣業務を行いました。
土日のイベント開催や、都内各所でのサンプリングで月収150~200万円を稼いでいました。
お金稼ぐってちょろいもんだと思ったそうです。
そして稼いでは使い、稼いでは使い。
あの時しっかりお金を貯めておけばと思う、、、後悔の念(笑)
友人たちが就職していき、自分も京都に戻り就職。
営業には就きたくないと思い、簿記2級を取って経理で就職。
就職しながら税理士試験を受験、2科目のみ合格。
就職から1年後、とある女性(現在の奥様)と出会う。
笑顔にひかれて付き合うことに。
そして女性にかまけて税理士試験の勉強は疎かに(笑)
しかし、付き合って1年後にめでたく結婚。
平成8年に長男、平成9年に次男が生まれました。
森ノ宮の公団住宅にお住まいでしたが、
家が狭いということがあったので長男が幼稚園に入るタイミングで
マンションを購入することを計画しました。
生活を切り詰めて切り詰めて、頭金として600万円を4年で貯めました。
すごい!!


そして、平成12年に東大阪市の新石切にマンション購入。
東京で広告の仕事をもらうことになったのがきっかけで
平成15年頃からまた起業しようと計画しだしました。
そして、知人から資金提供を受け、資本金1000万円で株式会社アジレック創業。
淀屋橋に事務所を借りたが、3ヶ月で1000万円が溶けることに・・・
同時に始めていたヤフオクでの日用品販売が軌道にのっていたので生活はなんとか出来ていた。
売上は平均600万円、粗利は40万円程度でした。
しかし、あえなく廃業。
原因は仕入れ先が倒産し、仕入れがうまく行かなくなったことにありました。
(中国から仕入れていた)
平成19年に再就職。定期的に入ってくる給料がどんなにありがたいことか、、、
平穏に暮らしてた時に会社から海外赴任の辞令が。。。
家族に話をし、平成23年にタイに単身赴任。
生活は基本英語と片言のタイ語で・・・
生活費を切り詰めるためにバスやロットゥーと呼ばれる乗り合いバンを利用する
赴任中は現地で起業している方々と知り合い、大きな刺激を得られた。
銀行の金利も高く、不動産も年々上昇しているなど大きな魅力を感じたそうです。
帰国後、会社都合で退職。

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そこで、知人が行っている不用品回収の仕事を手伝いました。
回収業務では手数料と回収した商品をネットで販売することで売上が意外と上がっていました。
昨年、回収した商品を購入する若者を頻繁に見るようになり、不思議に思い聞いてみると、
「ゲストハウスをやっている」という。調べてみたら意外と稼いでいる人が多いことがわかった。
昨年の10月に恵美須町で物件を借りて民泊をスタートし、初月から利益が出ました。
現在は民泊の代行事業で大阪市内で10軒運営しておられます。
さらに京都でゲストハウスを準備中。
新規事業で10月からメンズエステの店舗を開業準備中。
最後に今後のビジョンで締めくくられました。
2016年10月、資本金100万円で会社設立。
5期後自己資本を2000万円達成します。
レポート:門浦 智

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2016年9月13日 第93回やってみよう会 会合報告

木村塾やってみよう会「我が人生を語る」

奥村昇平 氏 idG株式会社 代表取締役

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今回門浦がレポートさせていただきます。

奥村氏は私の前職時代の後輩です。

 

現在奥村氏は、大学、学生、企業の三方を繋げる仕事、具体的には、大学生の就職活動と、企業の採用活動の支援をされています。

大学では、就職課(キャリアセンター)の一翼を担い、就職相談、講座、就職イベント等を実施。企業では、採用支援における広告物の制作、及びブランディング等を行っています。

 

自己紹介も終わり、これまでを3つのパートに分け、お話いただきました。

 

1)1979年(誕生)〜2003年(大学時代)〜自分のルーツを探る〜

滋賀県草津市生まれで長男一人っ子。父親は調理師で、母親はパートで働いていました。

交友関係が広く、土日になるといろんな人が家に訪れてホームパーティー。

誕生日や、クリスマスには溢れるほどのプレゼントに囲まれていた。

その後の奥村氏の交友関係の広さを思うと、ここが原点なのかもしれません。

 

小さい頃から背が高く、小6で170センチ。

めだったせいか、学級委員、生徒会長、キャプテンなど、まとめ役が多かった。

中学では、野球部に入部。中2の時に交換留学でサンフランシスコへ。

時を同じくして大好きだった祖母が末期ガンで余命半年。

勉強も、部活も一生懸命がんばった。祖母が喜んでくれるのが嬉しかった。

猛勉強の末、進学高に入学。野球部へ。

勉強と部活の両立がうまくいかず、1年夏で欠点8個。

高校を辞めたいという気持ちにかられたが、親から「部活がしんどいだけ。高校をやめる必要は無い。」痛いところを突かれとどまる。

頭の悪さを自覚し、勉強は卒業。野球と趣味のカラオケに専念。

バットよりもマイクを持つ方が好きだった。

結局一度もベンチ入りできず万年補欠。

最後の夏は、応援団長。1回戦で負けてしまったが、高校野球ハイライトで目立った応援団長として取材をうけた。

レギュラーよりもテレビに映れてうれしかった。

野球部を引退して高校最後の学園祭では学祭実行委員長を任された。

全校生徒の前で宣言。「浪人覚悟で学祭を盛り上げます!」

学祭の全体構成、メインMCなどを務め、校長に今までで最高の学園祭だったと言ってもらえた。

そして、宣言通り大学受験に失敗。予備校へ。

たくさん友達ができ毎日遊びまくった。授業にもあまり出ず、京都の河原町で歌のうまい友だちとカラオケ。楽しかった。高い学費払ってもらってるのに、、、

夏期講習では、自習室にいる女子高生に一目惚れ。思い切って声をかけた。河原町デートやランチ、満喫した。夏の終わりに告白したが、フラれた。

彼氏がいたのも知っていたが、なんとかなるかもと思って飛び込んだがなんともならなかった。

そして、大学へ。特に大きな目標もない。サークルとコンパの毎日。

コンパでは仕切り役として活躍。※ちなみに奥村氏はそんなに飲めません(笑)

そんな生活も楽しかったが、地元仲間で何かをやりたいと思い、野球チームをつくることに。貧乏学生だったので、地元企業の社長にスポンサーになってもらうようお願いし、資金調達をした。社長から、交換条件に少年たちに野球を教えてやってくれと。これがただの野球チームではなく、世代を超えた組織になった。ジュニア、青年、シニア部門ができ、いつの間にか100名を超えるクラブチームになった。

大学3年の時、両親が商売をはじめた。滋賀県石山で飲食店を経営。もともと父が働いていたレストランの親会社が経営悪化。父の店だけ繁盛していた。店舗権利を買うことで、オーナーになった。立地も駅前でお年寄りの多い町。憩いの場として利用。年金が入るタイミングはお年寄りで店内は溢れていた。年商5000万、両親ふたりと従業員はパートとアルバイト。奥村氏もここでアルバイトをした。ご奉仕額、仕入、人件費、賃料など親から商売のイロハを教えてもらった。

そして就活に突入。やりたいこと?将来の夢?ビジョン?すべて何もわからない状態。5月終わっても内定ゼロ。

そんな状態の中、1通のメールが届く。「就活生のお手伝いをしてみませんか?」

就活生やのに???何のことがわからず、会社説明会に参加。

私、門浦との出会いです。

すごくいい雰囲気で、はじめて働きたいと思えた会社だったそうです。

仕事内容についてはよくわからないまま、内定。喜びました。

 

2)2003年(社会人元年)〜2010年(苦難の年)〜山あり谷あり仲間あり〜

そして、社会人。

朝5時に起きて、帰宅は深夜2時。朝から鼻血が止まらない日々。

※一言言っておくと、実家の野洲から大阪は遠いので一人暮らしをするというから奥村君に内定出しましたが、いざ入社すると実家から通うというので自業自得だと思います笑

 

「この会社はなんでもできる!」と言われていたが、何もできない自分に落胆。3年はやめないと決めていた。理由はない。

とにかく、役に立ちたい、成長したいと思い、社員総会で名古屋支社の開拓の話が役員からあり、「一緒にやりたい人いますかー?」と言われ、1番に手をあげた。他に挙げた人もなく、2週間後には名古屋に転勤。

六畳一間のオンボロ事務所で、役員とマンツーマンで営業のイロハを叩き込まれた。実績も見本もない中での営業活動。とにかく企業の課題を徹底的に聞いた。その課題に対して、課題解決策を提示。枠にとらわれない課題解決のオリジナル提案が顧客に認められ、行く先々で契約をゲット。以後の自分自身の営業スタイルの基本となる。

そうこうしていると、愛地球博、愛知万博、トヨタバブル、名古屋国際空港、とにかく名古屋が絶好調。そのど真ん中で、営業も絶好調!

この頃から、今年やること100、夢ノートを描いていた。1つずつクリアしていくのが密かな奥村氏の楽しみであった。

順調に業績をのばし、26歳で名古屋支社長に昇進。

人員も2人から11名に。

売上規模も3億円を超えるようになった。

 

年齢も27歳になり、まわりは結婚ブーム。友達にお願いされ、結婚式や2次会のプロデュースを多く手がけた。これが楽しく、夢中に頑張った。わかりやすく、感動し、感謝される。そして、大好きなMCをやれる。ほんとに夢中になりました。

 

その頃から、営業職というより管理職の仕事を求められるようになり、数字とのにらめっこ。

 

念願であった、支社メンバー全員達成での売上達成を果たし、嬉しい思いとは裏腹に、次の目標を見失ってしまった。次の年度にはゼロになっているPL表をみて、ある意味義務感だけで仕事をしていた。

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リーマンショックによる業績悪化。企業からの売上が激減する中、大学の売上は増加。当時国から大学に予算がばらまかれていて、キャリア支援の仕事が増えた。

先行き不安でいた中、出張先の京都で予備校時代にフラれた子とばったり会う。

お互い大人になっていたものの何か通ずるものがあったのか、付き合うことに。予備校時代は彼氏がいてフラれたが、今回も彼氏がいたが奪った。過去の苦い経験が生きた。リーマンショックどことろか、急に訪れた楽しい日々。正直浮かれていた。

リーマンの余波は長引き、職場の仲間、先輩、元上司が会社を辞めていった。

そんな矢先、順調に交際を続けていた彼女と結婚直前での婚約破談。リーマンショックよりはるかにショックだった。

原因は当時の彼女のお父さんによる反対。一部上場企業を勤め上げ、自分の生き方が絶対と思っているタイプ。

お前の生き方にはすべて目標がない。お前の甲斐性では娘に服1枚買ってやれない。俺はお前と同じ年齢でマンションを購入していた。この世の中は悪い人間が上に登りつめる世の中。お前みたいないい奴は上にはいけない。お前も悪い人間になれ。常軌を逸した非道な言葉に深く傷つく。何より、大好きだった彼女が急にいなくなった現実を受け止めることができなかった。

公私ともに絶不調。

両親や親友、先輩方に支え励ましてもらった。

野球チームに出資してくれた、地元のガソリンスダンドの社長(地元では石油王と呼ばれている)に事務所に来いと言われた。

その時に言われた言葉が、「昇平よ、この世の中、男以外、皆オンナや。次行け!」

と背中を押してもらった。世の中を男と女という目線ではじめて見た。

経営者はごちゃごちゃ考えず大きく物事をとらえる。

両親には悔しい思いをさせてしまった。今思えば、自分よりもショックだったろう。後に、父が悔しくて男泣きをしていたと母から聞いて奥村氏も男泣き。

「まさか自分がテレビで出てくるような婚約指輪を海に投げ捨てるシーンと同じような境遇に立たされるなんて、、、」、そんなときに「あんたの純粋な気持ちまで売る必要はない。お母さんが買ったる。」と、母が婚約指輪を引き取ってくれた。ほんとに愛されてますね。

 

3)2010年(奮起の年)〜2016年(経営者元年)〜夢の経営者へ〜

ズタボロのなかなんとか前に進む。

いろんな方からの励ましをうけ、もう一度自らと名古屋支社を立て直す決意で、徹底的に事業を見直した。

リーマンショックの頃からきざしのあった大学関連の仕事が順調。メンバー全員の力を合わせ、新たな事業のカタチをつくりはじめる。

ワクワクしない売上数値だけでの管理ではなく、事業ビジョンをつくり、メンバーに公言。「学生・大学・企業3方を相思相愛の絆でつなぐ」をビジョンに掲げ、メンバーと共に支社を創りはじめた。

東海地区の国公立大学のイベントコンペに全勝。名古屋大学、名古屋工業大学、岐阜大学、三重大学、などと取引をさせて頂いた。

それぞれの大学と強いパイプをもった企業を「大学ブランド企業」と定義し、「大学、企業、学生」三方のご縁の橋渡しの一端を担い、素晴らしい一期一会の出逢いを、大学生、企業に提供したいという想いで、相思相愛の究極を追及した。

7期連続赤字拠点の大阪営業部に異動の打診。

もともと奥村氏が社会人としてスタートをきった場所。

正直、仕事においては良い想い出はなかった。

独立したいという気持ちが強くなっていたので、このタイミングで辞めようかと考えたが、両親に、「今の大阪営業部を立て直せるのは、あんたしかいないんとちゃうか?やってみーや。」と言われ、素直に受け入れ、大阪へ異動。

すぐさま再生事業に着手した。

「大阪営業部再建」を合言葉に新しいメンバーと共に挑んだ。

1年で黒字化して、独立することを決意して。

 

関西にかえってきたので、門浦(私)から連絡が。

木村塾っていう経営セミナーやってるし、奥村来いよ!

参加すると、「3分で10年後の理想の自分、会社を語ってみよう!」といわれ、1分であえなく撃沈。

前に座ったほうがいいよといわれ、すわったものの、木村会長のお話に圧倒。「PLは言い訳!BSビジョンが第一!」「言い訳をするな!」「起業家になれ!」挙句の果てに、会長から不意に「わかるやろ?」と言われ、ぜんぜんわかっていない自分がはずかしく、居たたまれなくなった。

ただ、この日を境に起業家になりたいと強く思い始めた。

 

1年で大阪営業部を黒字化。夢の実現のために、会社を退職。

バイブルである、電通「鬼十則」に起業するなら36歳まで的なことが書いてあったので、36歳の誕生日の直前に会社を退職した。

 

経営者として新しいスタート。前職からつきあいのあった、グラフィックデザイン会社の社長と共に会社経営をすることになる。

前職の時はおもに企業パンフレットのデザインを発注。この会社にはデザイナー、イラストレーター、カメラマン、コピーライターそれぞれのプロがいる。いわゆるプロ集団。プロ意識を持って仕事に取り組む姿勢がかっこよかった。純粋に一緒に仕事をするのが楽しかった。この人にデザインをしてもらいたい。もっと一緒に仕事がしたい。いつしか一緒に働きたいと思うようになった。それぞれが自律した存在に憧れていた。

その社長と将来について語っていた時に、言ってもらった言葉がある。

「とにかく一緒に仕事をしよう。私はデザインしかできない。奥村さんは何でもできる。だから奥村さんが社長になってください。」

思いもよらぬ言葉にただただ驚く。奥村氏にはまったくない発想。可能性を広げてもらった。恩人である。この人のためにも会社をもっとよくしたい。退職金を資本金にあて、2ヶ月の準備期間を経て、代表変更。会社名も変更。奥村氏が代表になり、idG株式会社が誕生した。

現在、東海と関西で営業活動を展開。

「Think,together.〜ワクワク楽しい問題解決〜」を企業理念に、アイデンティティーのあるデザインは問題解決すると信じて、デザインの力の新たな可能性に挑戦。2017年新ブランド「人生劇団」を立ち上げ予定。人生の節目で大切なイベントを、世界でたったひとつの舞台へと一緒に創り上げる。人生劇団で、人生は、もっと、もっと楽しくなる!

 

そしてBSビジョンの発表。

10年後idGグループとして3つの事業の柱

①   グラフィックデザイン部門

②   キャリア支援部門

③   人生劇団部門(婚活、同窓会、生前葬など)

代理店からの請負仕事は廃止。直販体制を整備。

自分たちにしかできない付加価値の高い仕事に取り組む。

3つの事業を柱に10年後自己資本1億円を目標に経営。

(※木村会長から、現実的な目標として、役員1人につき1000万。ビジョンを共有し、10年後自己資本4000万を当面の目標にした方がよいと助言をいただく。)

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最後にこう締めくくられた。

母親に見送られて初めて出勤した、13年前、あの時の自分は、不安しかなかった。けど、今想うことは、仕事は楽しい。

出逢いと別れ、いろいろ経験したが、今ここにいるのは紛れもなく、出逢えた人たちのおかげ。

振り返ると、気の知れた仲間と一緒に働ける時間は、人生の中のほんの少し。その貴重な時間の中で、仕事も遊びも、その一瞬一瞬を本気になれたからこそ、楽しかったと心から思う。

不思議なもので、悲しいことや、辛いこと、悔しいことの後には必ず楽しいことが待っていた。

かけがえのない仲間やお客様に出逢えたことと、その人たちと一緒に仕事を創ってきた経験は、奥村氏の財産であり、誇りだと。「人が仕事を創り、仕事が人を磨く」素晴らしい人生であった。

現在、経営者として新たなスタートを切れたことを有り難く受け入れ、お世話になったすべての方々に感謝をし、これから先の未来に想いを馳せて、できることを精一杯頑張っていく。

そしてこれからも仲間を大切にしていく。

 

熱い男です。

期待しています!

 

レポート:門浦 智

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2016年8月30日 第92回やってみよう会 会合報告

ブルークウォッチカンパニー代表取締役CEO 青松敬介

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▼自己紹介インターネットを中心にブランド腕時計の販売をしている。2000年に創業し、現在では従業員約30人、年商約25億円の事業規模。創業以来、インターネットで業績を伸ばしてきたが、実店舗の出店を見据えて大阪心斎橋にビルを一棟買い、2016年8月にブルーク初のランドマークとなる店舗を出店した。

木村会長の本を読み、自分と同じ島根県益田市の出身で同じ中学校を卒業しているという事にも興味を惹かれ、木村会長の講演を探して会いに行く事に。そしてその講演で、木村会長に質問をした際に「自己資本はいくらか?」と聞かれて「5億円です。」と答えると、その金額に驚かれた木村会長が数日後にブルークを訪問されて、会社訪問後に食事を一緒にした事が出会いのきっかけとなった。

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▼社会人〜起業までの経緯

親戚のコネで地元島根県から出てきて高卒で大阪の金融機関に就職し、バブルの絶頂期〜バブル崩壊の走りを金融機関の中で経験した。当時は毎日夜遅くまで働いていたが、毎日のように上司に怒鳴られ、仕事帰りに同僚と酒を飲みながら会社の文句を言っているような社員だった。その金融機関には3年間勤めたが、最終的には赤字社員のまま成果も出せずに辞める事となった。

その最初に勤めた金融機関の外回りの顧客訪問時に、バブルの絶頂で調子のいい時はテレビを見ながら寝ていたりあまり努力をしていないように見える社長が多く、バブルが崩壊して不景気になると、そんな努力をしない社長から消えていくのをたくさん見てきた。そこで、うまくいく経営者とうまくいかない経営者の違いを知った事が後の人生において貴重な経験となっている。

そして次に飛び込み営業の会社に入社するも、同じような営業の仕事で全く成果が出ずに、やる気もないまま約2年でクビになり自分に営業は向いていないと気づく。

当時結婚した妻を幸せにするために、「次の会社は絶対に成功する」と覚悟を決めて、ベンチャー企業に入社する事を決意し、創業3ヶ月の海外ブランド化粧品販売の会社に就職する。

入社してから最初の2年間は仕事が全くできなくて、会社に迷惑ばかりかけていたが、失敗しても失敗しても社長から降りてくる仕事を他の誰よりも真っ先に取り続けた。誰よりも早く出社し、誰よりも遅く帰り、誰よりも長い時間働いていたので徐々に仕事で成果を出せるようになり、誰よりも働き誰よりも真っ先に仕事を取りに行く前向きな姿勢を、社長から認められるようになる。そして最終的にはそのベンチャー起業のナンバー2となり、社内で最年少ながらも約50人の部下を持ち、有名なハリウッドスターを日本で一番初めにCMに起用するなどの、大きな仕事も任されるようになり、人生のスパイラルアップの波に乗る。「4年間勤めていた間、新しい事ばかりに挑戦し続けて、やった事のない事ばかりをやっていた」、「今思えば人のお金であれだけチャレンジさせてもらえる会社はない」と当時を振り返る。

しかし最後は、当時の自分を一番側で支えてくれていた信頼する部下を、自分が出張で不在の間に社長にクビにされた事がきっかけで社長と喧嘩になりクビにされる。その社長は凄く癖のある人で、人付き合いが苦手だった。社長がご飯に誘った時の返事に少し間があっただけで別の理由をつけてクビにされるような理不尽な社長だったが、そんな理不尽な社長の元で4年間働いた事でとても鍛えられたと語る。

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▼起業〜現在

28歳でバックパッカーの旅をしている時に、起業する事を決意し、1999年に大阪布施でマンガ喫茶を始める。ベンチャー企業で成功体験を積んできた当時、天狗になっていたので絶対に成功すると思い込んでいたが、なかなか上手くいかずに、ギリギリ生活できるような業績の中で悩む毎日を過ごす。そんな悪戦苦闘の日々の中でたまたまヤフーオークションに漫画を出品してみたら、それが意外と売れる。ヤフーオークションで販売する為に漫画を仕入れて売ってみたところ、3ヶ月であっという間にマンガ喫茶の売り上げを超えてしまう。当時はインターネットでものを売る事が一般的ではなかった時代。これからはインターネットの時代が来ると考えた青松は単語帳を買って準備し、ありとあらゆる商材を単語帳に書き出し、その中からインターネットに向かないものを省いていき、最後に残った商材が「腕時計」でブルーク創業のきっかけとなる。

ブルークを創業してからは1年目で年商9,000万円を突破。それから年商6億円の事業規模までは妻とアルバイト1人の3人でやっていた。インターネットという時代の流れに乗った事もあるが、インターネットで時計を売る同業他社では、時計屋の息子のような2代目社長や、時計店のパソコンが得意な社員が多かった中で、全部の事を自分でやっていたので、圧倒的に情熱では競合に負けていなかった事がこの時うまくいった要因だと当時を振り返る。

ブルークという会社は完全数値経営を行い業績を伸ばしてきた。売上ではなく利益を見える化するために自分自身でシステムをつくり、社員に利益目線を伝える努力をしてきた。具体的には決算書の人件費、家賃、光熱費などを合計したコストを出荷数で割り、1出荷あたりの想定コストを算出し、それを粗利から引いて1出荷あたりの想定経常利益をつくった。その数字を「実利」として社員が追いかける目標に設定し、社員に利益目線を意識させ続けてきた。利益の大切さを正しく伝えないと、ただ値段を安くして数をたくさん売るだけで満足してしまう。その時に売れた商品がいくらの利益を産んでいるか?という事を社員に理解してもらえるような工夫をし続けてきた。

また、ベンチャー企業で働いている時に成長した自分の経験から、世の中が理不尽なのに社長があまりいい人過ぎてはいけない。世の中の理不尽さや困難にも乗り換えられるような力を社員につけて欲しいと考えている。

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▼今後のビジョン

「2025年までにブランド業界でお客さまに最も信頼される会社になる」というビジョンがあり、ビジョン実現の一歩として、8月1日から心斎橋に店舗をオープンした。お客様に世界で最も信頼されるブランドショップにするためには、電話やメールのやり取りだけでなく、店舗で直接お客様とする接する事が必要だと考えている。そして、2020年までは実店舗とインターネットを活用して国内中心の販売に力を入れて日本一のブランドショップを実現し、2020年からは海外に向けて販売を強化し最終的には世界一のブランドショップを目指すというビジョンを力強く語った。

 

レポート:桑本一馬

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2016年8月9日 第91回木村塾やってみよう会 会合報告

第91回 木村塾やってみよう会 『我が人生を語る』 沢井弘志

代表取締役 沢井弘志
株式会社ダイコー製作所(本社と第2工場:東大阪、支店:ベトナム)
事業内容;精密機械加工・ショットブラスト・バリ仕上げ・品質検査
株式会社ジェイポートインターナショナル(本社:大阪、支店:ベトナム)
事業内容;インバウンド集客支援・ベトナム人エンジニア採用コンサルチング
     ベトナムビジネスサロン「ベトシェア

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~人生で逢うべき人には必ず逢える~
昭和46年5月24日 九州福岡、母の実家で生まれる。
祖母、母と三代続けて同じ産婆さんに取り上げてもらう。
二人兄弟の兄は大阪の病院で生まれたが、なぜ九州の産婆さんに?二人兄弟の兄との間に生まれたもう一人の兄は死産だった。逆子だった自分はそんなこともあり、母は大事を取り九州の産婆さんに託したという。無事この世に産声を上げることができたのも、その兄のお陰かな…だからその兄の分もがんばって生きていこうと思う

高校1年生(16歳)の春、父が交通事故で他界。朝、父はいつも通りに仕事に出ただけなのに、自分が学校から帰ったら、父は死んでいた。今年5月の誕生日、44歳であの世に行った父の歳を一つ越えることができた。若くして亡くなった父の無念を心に刻み…父の分も頑張って生きていこうと思う

父亡き後、4つ違いの兄が父親代わりとなり守ってくれた。小さいころから兄は自分の憧れ。ゴマチュウだったころからそして今も、ずっとずっと、守ってくれている。

高校生の時、北新地の珍味屋さんでアルバイトをしていた。正司社長に任され会計から、営業から配達まで、何もかもほとんど一人でやっていた。社長からも「ここに就職したらどうや」と言って貰えるくらい可愛がって頂いた。このときの経験でもビジネスセンスが養われた。

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珍味屋への就職は、兄の反対もあり、
高校卒業後、一部上場の東洋シャッターに就職したが、1年で退社。
兄の口利きで、兄が務めている会社に入った。
23歳の時、上村社長から独立しないかと言われた。
お金が欲しい!私利私欲→独立→やる!!➡やってみなわからん!!!
社長から引き継いだ30坪ほどの小さな場所と3人のおばちゃんとでスタート。
ダイコー製作所 創立。
しかし時代は、海外展開等で落ち目、仕事がない、おばちゃんの給料が払えない。ピンチ。そんな時、青木さんと出逢い仕事を貰えるようになった。
創立から2年後、10人の社員さんになった。
金崎社長との出逢い、300坪の工場を借りろ!とアドバイスをうける→想像がつかない→やってみなわからん!!!
小学校からの幼馴染の片田が会社に入ってくれた。(今ではナンバー2として、工場長として頑張ってくれている。お互いに裏切ることがない関係と思っている。知己である。)
お金は儲かる。
一冊の本「お金持ち父さん、貧乏父さん」の影響で、収益マンションを購入(32歳)→やってみなわからん!!!
稼いだお金は俺のもの、お金を散財していた。

良く分からないまま中国人を使っていたが、不法就労で半数以上の社員さんが退社。会社の仕事は、次の人を採用するまで待てるような仕事ではなく、最大のピンチ。この時も兄が力を貸してくれた。
強制退去させられる中国人が帰る飛行機代がないという事で、お金を空港までもっていき別れて、一人会社に帰るまで、ひとしきり泣き、“自分は今まで何をしてきたんだろう”と反省した。

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次の出逢い
日総研のSA研修、岸上、アイビー化粧品のSA研修、から、
今までの自分を猛烈に反省。

平成18年6月個人事業から法人なり。株式会社ダイコー製作所 創業。
設立2期目に、リーマンショック。
天国と地獄の繰り返し。
そんなころに、松木さんと出逢い、佐藤さんの会社にベンチマークに連れて行って頂く。そのころから、“ちゃんと経営しなあかんな”と思い、日創研を真面目にやりだした。南大阪経営研究会の担当委員長の時に、講演のお願いに上がり、木村会長と出逢う。ご縁を戴いた。
強い会社を創る!本気で創る!
さぼり癖が出たら、木村会長のご著書「BS経営のススメ」を読んでいる。
木村会長の『我が人生』のスクリーンを見ながら、毎回涙を流している。

株式会社ダイコー製作所
5年後(15期)自己資本1億
10年後(20期)自己資本3億

<ダブルインカム>
平成27年7月7日、株式会社ジェイポートインターナショナル 創業
菅野と加藤との出逢いから、岸上と4人で船出。
10年後、一部上場企業へ➡やってみなわからん!!!

<パートナーシップ事業>
OESアカデミー(エアラインスクール)
IVY COSMETICS

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30坪の会社と3人のおばちゃんからスタートした会社は、
今では、3拠点となり、50人の社員さん(派遣含む)となった。
おばちゃんたちは、60歳を過ぎた人から円満退社。昨年最後のおばちゃんは、67歳で「会社も大きくなって安心やし、私はもうそろそろゆっくりさせてもらうわ」と、円満退社された。感謝に、止めどなく涙が流れた。
一人で大きくしたのではない~全ては人との出逢いから~全ては皆様のお陰。
名前の「志」という字のように、十人(たくさんの人)と心(想い)を一つにし、ビジョンに向かっていく。
そして、いつか皆様に恩返しのできる会社に。

                             作成者Sayoko.Kishigami

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2016年7月26日 第90回 木村塾やってみよう会  会合報告

講演 有限会社 エム・カンパニー 常務取締役 白川 尚範 様

テーマ 「我が人生を語る」

 

90-1

 関西地方に住んでいる人達にとっては、この言葉は、時に最高の褒め言葉になる。

 

「腹立つわぁ・・・。」

 

私が、白川様の講演を聞いた後、率直に思った感想です。

相変わらず、節々で、噛んではいましたが、正直、めちゃくちゃカッコ良かったです。

 

 それは、白川氏が、素直に、貪欲に学び続けている成果が、現れていました。

 

幼少期の頃の白川氏は、今では、想像もつかないが、虚弱体質で、良く病気をしていたそうだ。白川家は良く引っ越しを繰り返していた。家は、大雨が降ると床下浸水になるような家に住んでいた。

 

在日韓国人。

 

それを理由に、幼少期は、いじめ、差別を受けてきた。

周りの事を信じる事が出来ない、相手は自分をどう思っているのだろうか?

なぜ、自分だけ・・・。

 

繰り返してきた引っ越し。次なる場所は和泉市だった。

ここから、現在の白川氏の原点となる人格が形成されていった。

 

 そこで、出来た友達は、今でも、良いお付き合いをしている。

そして、大人になった今、みんな仕事はもちろん頑張っているし、なおかつ活躍している。

 

 和泉市に引っ越してから、ようやく、友達が出来始めてきた。

そして、楽しい日々が続き、どんどん、性格も明るくなり、気づけば、学校でも有数のいたずら小僧になっていた。

 

 小学校・中学校時代は、何でもソツなくこなすタイプだった。

でも、それが本人曰く、堕落の始まりだったという。

所属していたサッカー部では、万年補欠。だからと言って特に必死で努力する事もなかった。

昔から、在日韓国人という事で、劣等感は強かったが、いつしか、それが、理由で、諦めるのも早くなっていた。

 

 高校に進学すると、成績もどん底、親に嘘をついて、学校をさぼってゲームセンターに通っていた。

 ひょんな事がきっかけで、所属していたサッカー部で、たまたま国体選手に選ばれ、現地まで行く事になったが、その後、当時、タバコを持っていた事が先生方に知られ、罰として、丸坊主にするか、サッカー部を退部するかの選択を迫られるが、あっさりと退部を選択。

 

そして、そのまま、何となく、目標も持たないまま、学校を卒業と同時に、当時からアルバイトをしていた中華料理屋にそのまま就職する事になる。

 社会人となったが、夢・目標など、掲げず就職した中華料理屋は、先輩社員とのトラブルがきっかけで、早々に退職する。

 その後、就職活動を行うが、ここでも、「在日韓国人」という事が、原因で、なかなか就職先を見つける事が出来なかった。

 

 そんな中、たまたま求人誌で見つけた所に、面接に行った。

 

 今から見ると、ここが、白川尚範氏が、迎えた最大の人生の転機であった。

 

 (有)エム・カンパニー 代表取締役 松木克浩氏との出会いだった。

 

 当時は、まだ、従業員数は数名で、面接は、松木社長の自宅で行われた。

その時、白川氏は自分から、「私は在日ですが、大丈夫ですか?」と質問すると、

松木社長は「そんなもん関係ない!エム・カンパニーはやる気を重視する!」と。

 

 今から20年前の7月。エム・カンパニー白川が誕生した。

 

 その時は、人数も少なかったが、当時から、従業員同士の仲間意識は強かった。

 

入社当時は、現在のエム・カンパニーの業務形態とは違う、配送を行っていた。

それから、現在の「畜産物流」の原点となる、冷凍食品を配送する業務が増えていった。

この頃から、食品配送の割合が増えると同時に休みも、どんどん減っていった。

 

 また、ここで、堕落の白川が出てしまう。

 休みがないから、しんどい→辞めたい。

何とか、仲間に引き留められ、続ける事を決意する。

 

 しかし、業務拡大とともに、仕事量もさらに増え、さらに休みが減ってきた。

 

 アカン。辞めたい。何とか辞める理由を作って辞めようとするも、こちらも創業メンバーである、松木社長の実弟である松木専務に「絶対にもう少し辛抱すれば、改善するから!」という言葉を信じて、続ける事を決意する。

(※実際、この時は、釘師になるので、辞めさせて下さいと伝えたそうだ。)

 90-2

 課長職という立場になり、事務所で配車係(配送を行うトラック・ドライバーの予定を組む係)に任命される。

そこで、さらに壁にぶち当たる。

 ドライバーからの不満。経営陣からの業績向上の期待。

 

 下からと上からの不満と期待の重圧に押しつぶされそうになった。

またもや、ここでも、何らかの辞める口実を作って、退職願を提出する。

(※この時は、おでん屋をするので、辞めさせて下さいと伝えたそうだ。)

 

 この時は、さすがに松木専務も、諦め、2か月後の退職を認めた。

 

このお話をしていた際、白川氏は、会場に来ていた現若手社員に、こう言った。

 「みんなも、必ず、これから自分と同じ経験をし、同じ思いをする。」

 「そん時は、遠慮せず、上司である自分に相談して欲しい」と。

 

 

 そして、この退職願が受理されて間もなく、エム・カンパニー史上最大の事件が起こる。

 

松木社長が研修と出会い、学ぶ姿勢が整ってくると、会社の売上も順調に伸びていき、ここで、社運をかけた大手チェーンの店舗配送を受諾する。

 

だが、そこで、大きな事件が起こる。

 その仕事自体が無くなるという、最大のピンチを迎えるが、その時、幹部社員の一言で、また、松木社長が奮起した。

 「社長、僕、このままじゃ悔しいですわ!また、ゼロから頑張りましょっ!」

その社員は、当時、2ヶ月後に退職する予定であったが、それも撤回した。

現在、その幹部社員は、エム・カンパニーの常務取締役である。

その人物こそが、白川氏なのだ。

(※その発言の1日前まで、おでん屋を目指していました。)

 

その事件以降、社員一丸となって、何とかピンチを乗り越えた。

 

そして、もう一人、白川氏に影響を与える人物が現れた。

「木村勝男」氏だ。

著書の「逆境に勝る師なし」の中に

育ちの悪い人でも・・・。という事が、心に響いた。

自分と同じ在日韓国人である人が、自分と同じ境遇である人が・・・。

 

 それから、自身もエム・カンパニーの取締役になるという目標を立てる。

そして、いつしか、松木社長から、後継者として・・・。という事を言われるようになったが、当時は、どこか「責任」という事から逃げる自分が居たという。

 

 現在は、その気持ちを少しでも無くすため、さまざまな場に行き、学び続けている。

 90-3

 会場でのエム・カンパニーのビジョンの発表は圧巻でした。

というのも、社長である松木社長が話しているかのような、社長と常務で、寸分の狂いなく共有出来ている事だ。

 そして、数年後は、白川アレンジが施された、ビジョンも聞いてみたいと思いました。

 

 自身のビジョンとしては、

・6年後の2022年6月30日にエム・カンパニーの社長に。

 ・65歳までに、貯金1億円を貯め、奥様と好きな時、好きな所に旅行に行く事。

 

 発表の後、会場にお越しになっていた、奥様とお嬢様からは、旅行ではなく、ハワイに住みたいという発言で、会場全体にとても、温かい、笑いが起こりました。

 

 会場には後方に臨時で椅子を増設するほど、大勢の方が集まっていました。

 

それは、愚直に学ぶ続ける白川氏。

そして、分け隔てなく接してくれる白川氏。

いつも楽しい空気を創ってくれる白川氏。

時に心強いアドバイスをくれる白川氏。

意見に対して素直に聞いてくれる白川氏。

 

幼少期から、さまざまな経験から、培った人間力を武器に、白川尚範氏の周りには人が自然と集まるようになっていました。

 

あまり褒めすぎると、また、お調子者に拍車がかかるので、ここらへんにしておきます。

 

これからも、共に切磋琢磨していきたい人物です。

 

だから、今回の発表が少しばかり、カッコ良かったので、腹が立ちました。

 

白川さん、ありがとうございました!

 

噛んだ回数は、16回でした。

 

 

平成28年7月26日 前田 繁孝

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2016年7月12日 第89回木村塾やってみよう会  会合報告

藤平仙花さんの我が人生を語る。

89-1
中国青島市(吉林省生まれ)
長女、妹と弟がいる。
よく日本ではB型に見られるが、実はA型。
中国語、韓国語、日本語、英語が話せる。
本当に堪能な方だ。
「人生は、誰と出会うかで決まる。」
この言葉が印象深い。
小中校と吉林省で過ごす。冬が長く寒い場所だ。
吉林大学日本語専攻。
貧しく我慢の連続だった。
大人になると我慢しなくなると思っていた。
ミラクルがあった。
狭き推薦枠を先生からやめるように言われたが、諦めなかった。
すると、勝ち取って合格できた!
ところが、学費が1万円足りない。
知人からのお祝いで救われる。
それが人生の転機となった。

89-2
中国の旅行会社で4年間働く。
中国の人は、何をしたいかよく考えている。
2009年リーマンショックのあおりを受けて失業。家族の死・・・
失業を機に貿易の仕事と掛け持ちしながら2010年にホームエステサロンをスタートした。
2013年には愛する人との別れもあった。
今まで、妥協の連続だった、
だから絶対妥協はしないと誓い、自分の証を残そうと誓う。
そしてホームエステサロンを開始した。
最新技術を使ったエイジングケアだ。

89-3
2016年には人生の師との出会い。
美容のフランチャイズ展開を海外に広めていきたいと強く思った。
これからのビジョンは
自分だけが儲かるのではなく、みんなを幸せにしていく。
最後にBSビジョンを発表し、締めくくられた。

レポート 田村浩太郎

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2016年6月28日 第88回木村塾やってみよう会 会合報告

木村塾 やってみよう会 わが人生を語る
株式会社 ダスキン川西 専務取締役 兼
阪神クリーンサービス 代表取締役
名越 卓氏

木村塾初参加にして初登壇という珍しいケースです。
やってみよう会がどんなところか、どんな感じでこれまでの発表者が発表してきたかわか
らないまま、発表者として前に立つことになった名越氏。緊張の中、発表が始まりまし
た。

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まずは自分が何者なのか、ということで、現在の会社の紹介から紹介くださいました。
名越氏が経営している株式会社ダスキン川西は兵庫県川西市にあります。【喜びの交換で
環境も人の心も美しく】を理念に掲げ、川西市を中心に掃除用品のレンタルサービスや、
事業所向け衛生管理業務を展開しています。社内イベントは非常に多く、全体会議はもち
ろんのこと、月 1 回の勉強会、祭りに餅つき大会、BBQ、ボーナスの査定にも含まれる全
社員対象の経営理念プレゼン大会、社内方針決めるための合宿、そしてありがとうコンテ
スト―。社員の方々がどれも積極的に取り組んでおられるとのこと。勉強会もブレゼン大
会も今でこそ定着しているが、そうなるまでは本当に大変だったと名越氏は語ります。

何とか勉強会を定着させたかった名越氏。「1 人でもいいからやる」と決め、従業員に公言
し、毎日朝 7:00-8:45 まで毎日いつでもいいから来てくれ、と伝え、毎日欠かさず 7:00-
8:45 勉強会を実施したとのこと。どうしてもこの勉強会はやりたかった、と。その姿を見
て従業員の方々もついてきてくれるようになったと語っておりました。やはり、上が背中
をみせる。これが大事なのでしょう。また、全国ダスキンのソフトボール大会では 5 年連
続優勝・野球部も非常に強く、野球をしたいからと入社しに来る社員もいるとのこと。社
内の行事が多いだけでなく、子供達に掃除の大切さを教えるため、「お掃除教室」を行
い、地域の方々との親交もはかっております。なんと、【川西を世界に誇れる街に】とい
うことで、地元の方々にも協力いただき、【世界最大のお掃除教室】を開いたというギネ
ス記録もお持ちとのこと!そんな社員にも地域の方々にも愛されているダスキン川西。創
業は名越氏のお祖母様になります。

ここから、名越氏の人生のたな卸しが始まります。名越氏の人生のキーワードは 9 つ。
①祖父
②母
③角のアパート
④サッカー
⑤留学
⑥就職
⑦父からの手紙
⑧創業の精神
⑨BS ビジョン

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まず 1 つ目のキーワード【祖父】。
名越氏は非常におじいちゃんっ子だったとのこと。幼い頃体が弱かった名越氏は、よく学
校から親御さんに迎えに来てもらうように連絡が入っていたようですが、そのお迎えはい
つもお祖父様だったそうです。ずっとお祖父様と行動を共にしていたため、ご自身のイン
場があって一本義・人望があるというところはお祖父様がベースになっているとのことで
す。

そして 2 つ目のキーワード【母】。
名越氏は、5 年前まで、生まれてきてこの方、お母様に褒められたことがなかったとのこ
と。学校でいい成績をとっても、スポーツで活躍しても、何をしても褒められなかったと
いいます。そして、そんな間柄のせいか、お母様と話時はずっと敬語だったとのこと。し
かし、このままではいけない、と 5 年前の 2011 年。意を決して名越氏はお母様と向き合
います。「なぜこれまで自分のことを褒めてくれなかったのかー」その理由は、名越氏へ
の期待を込めて、というお母様なりのやり方でした。名越氏のお母様は、名越家に嫁いだ
ときに、ご自身の出のこともあって、名越家との確執があったようです。名越氏が生ま
れ、名越家にとっては大事な後継者。下手な教育はできない。そのプレッシャーから名越
氏に対しては「あんたはもっとできる子なんやで」と言っていたとのこと。そういう想い
があって、これまで褒めてこなかったと。母の真意を聞いて、そこからは胸のつかえがと
れ、親子関係は良好になったようです。

そして、ワードだけ見てもよくわからない 3 つ目のキーワード【角のアパート】。
これは、名越氏が「自分の本音を言えなくなった」きっかけになったことです。【角のア
パート】それは友達の家。友達の家に遊びに行って、帰り際、友達のおもちゃに目がいっ
た名越氏。思ったことを素直に言うのは幼い子供にはよくあること。友達のおもちゃを目
にした名越氏は言います。「これちょうだい」と。すると、友達の両親はそれはもうすご
い剣幕で叱ったそうです。幼い子供にとって自分の倍以上も身長のある大人が上から叱っ
てくるー。その衝撃は幼い子供には強烈で、これをきっかけに「あ、本音ってゆーたらあ
かんのや」と思い、自分に蓋をするようになったといいます。30 代になった今でこそ、そ
の体験は乗り越えられているものの、今もたまに出てくるそうです。

そして 4 つ目と 5 つ目のキーワード、【サッカー】と【留学】。
学生時代、本気でサッカーに打ち込み、本気でプロのサッカー選手を目指していた名越
氏。しかし、上には上がいる。実力が及ばず、高校生でプロサッカー選手の夢は諦めるこ
とに。それが「初めての挫折だった」と語る名越氏。そんな経験をしつつも、父の勧めで
シアトルに 5 年間留学することに。留学をして特にやりたいことがあったわけではなかっ
た。とりあえず、バイトに明け暮れる日々。バイト先は飲食店。日本人・というただそれ
だけの理由でお店の寿司コーナーを担当させられ、握ったこともない寿司を握ることに。
野球選手イチローが来たのを機に【イチロール】を作成。それが店で大ヒット。その他考
えたお寿司も全てヒット。その成功体験が非常に楽しかったといいます。

そして 6 つ目のキーワード、帰国してからの【就職】
初めての就職先は、フランチャイズのダスキン東京の営業担当だったとのこと。ダスキン
東京は全国でも規模の大きいフランチャイズ店で、施設も設備も人も、環境として出来上
がっていたそうです。その中での営業担当。1 日に 70 件飛び込みで行くのは当たり前。時
には、入ってはいけない領域に営業をかけてしまい、2 時間正座させられて説教を受け
る、ということもあったようです。「本当に色々経験しました」そう語っていた名越氏。
そんな経験をして社会人として成長した時に、自分の会社である㈱ダスキン川西に戻りま
す。当時、すべてが揃っていた東京と比較してしまい、「ない」ものばかりに目がいって
しまっていたようです。そして経営者となるため、起業家養成スクールへ。そこで木村会
長と出会います。

起業家養成スクールに行き始めた頃に、お父様から名越氏に 1 通手紙が渡されます。それ
が 7 つ目のキーワード【父からの手紙】。
多くは語りませんでしたが、お父様の考え、これまでしてきた失敗、そして息子への想い
ー。経営者だったからこそ、従業員にはわからない苦労があった、その苦労をぜひ息子に
もして欲しい。だから起業家養成スクールへ行け、と。そういった内容の文章が綴られて
いたようです。そこからお父様との間にあったギクシャクした関係も良好になったといい
ます。お母様の時もそうでしたが、向き合うということの大切さ、に気づかせてくれたエ
ピソードでした。
㈱ダスキン川西で働き始めて「ない」ばかりに目がいっていた名越氏でしたが、会社の
【創業の精神】を知って、自分の会社の凄さに気づきます。(8 つ目のキーワード)
創業者のお祖母様は名越家に養女としてだされたようです。引き取られた先はとても裕福
な家庭だったのですが、これを機に創業します。初めはお金もないし車もないのでリアカ
ーで雑巾の回収を行っていたとのこと。しかも、雑巾を回収しているそんな姿を見られる
のは恥ずかしいとのことで、人目につかない夕方になってから雑巾を回収し回っていたよ
うです。それから回収した雑巾を洗い、綺麗に畳んでダスキンに返す。その作業の繰り返
しだったようです。この作業は「喜びと喜びの交換」で素晴らしいことなんやで―。それ
が口癖だったようです。それを知って、㈱ダスキン川西に対する見方は変わったそうで
す。

そんな人生を送ってきた名越氏。今は㈱ダスキン川西の専務取締役と阪神クリーンサービ
ス㈱の代表取締役を兼務しております。㈱ダスキン川西は名越氏で 3 代目。幼い頃から
周りに「3 代目を継ぐんだねー」「どーせ自分の会社にはいるんやろー?」と言われていた
名越氏。自分の中でも勝手に「自分の会社に入るんやろうなー」と思っていたとのこと。
それは【流されていた人生】であり、自分は何もチャレンジしていなかったな、と、いう
ことに気づいた名越氏。死ぬときに「あー、チャレンジしたなぁー」と満足した人生にし
たい、そう思っているも、数字がないから感覚としてふわふわしているとのこと。そのた
めに与えられた「やってみよう会」。名越氏が語ってくれた最後のキーワード、【BS ビジ
ョン】です。

名越氏が掲げるのは『阪神クリーンサービス㈱を活かして BS ビジョンを実現する』とい
うこと。㈱ダスキン川西の仕事をしている中で、無意識に自分に蓋をして、採算が取れず
㈱ダスキン川西では無理・という案件は断ってきていたとのこと。今回の自分の人生の棚
卸をした際に、この断る行為も「チャレンジしてなかったことやなぁ」ということに気づ
いた名越氏。「ダスキンの単価では受けられないような清掃業務(Airbnb の部屋の掃除な
ど)を阪神クリーンサービス㈱が引き受ける」という構想を持っています。【この阪神クリ
ーンサービス㈱で自分のやりたいことをやろう。チャレンジしていこう。そして自己資本
を達成しよう】そう決心して掲げた名越氏の BS ビジョンは
『10 年以内に自己資本金 5,000 万円』
現在自己資本は 1,500 万円。

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チャレンジしてこなかった人生・と自身は語っていましたが社内の勉強会を定着させるた
めに自ら進んで行動していたこと、留学での寿司つくりや 1 日 70 件にも及ぶ営業活動、
仕事をしながら起業家養成スクールに通っていたことなど、客観的に見れば十分チャレン
ジをしてきている人生のように思います。しかし、本人としては【まだまだ】。その貪欲
な姿勢・そして従業員を大切に想う名越氏の BS ビジョン、実現するに違いないと感じま
した。
名越さん、初めての木村塾での初めての BS ビジョンの宣言と人生の棚卸、お疲れ様でし
た!
レポート:長谷川夕起

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2016年6月14日 第87回木村塾やってみよう会  会合報告

第87回木村塾やってみよう会は【way u.うぇい。】代表の長谷川夕起さんにご登壇いただきました。

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セミナーコンシェルジュ・ヒトプロデューサーとして【way u.うぇい。】を本格始動、そして社会貢献団体/コミュニティ【so 咲】も運営されている長谷川夕起さんの「我が人生(経営)を語る」感動的でありました。

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☆幼少期(0~2歳)
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その生い立ちは、1984年7月31日に兵庫県西宮市に誕生。

”夕起さん”というお名前は、ご両親が「素直で優しく、誰からも愛され、女らしく」育って欲しいとの思いを込めて命名。

ご自分の今、過去を振り返っても”女らしく”を除いて”素直で優しく、誰からも愛される”人生を歩めていると実感されています。しかし今日の参加者全員”女らしさ”も備わっていると思っていますよー!

なんと0歳の時には川崎病発症、九死に一生を得たそうです。
いや~生きててくれて良かったです。おかげで今日の発表を聞くことができました。
ありがたや~。

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☆幼児期(3~5歳)
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お父さんは、男前で優しくスポーツ出来て頭が良く、お母さんもかわいらしくて優しく、理想的な夫婦で大好きなご両親とのこと。しかし躾は厳しく、お父さんの言葉は厳しくて怖かったそうです。

この頃は、病弱だったのだけれども外遊び大好きで、暗くなるまで公園で遊び、デパートの屋上の催し物では自分から手を挙げステージに上がる、とても積極的で怖いもの知らずの子供だったそうです。しかし苦手なものがただ一つ、それはなぜか男の人だったそうです。公園で男の人と目が合っただけで大泣きして家に帰ったそうです。

————————————————-
☆小学生(6~11歳)
————————————————-
小学校に上がり、2年生の時に転校
西宮から神戸に引っ越して人生の転機があったそうです。
まず、文化の違い、言葉の違い。
西宮と神戸、結構近いのだけれどもかなり違うらしいです。

それと、転校して少しだけイジメがあり、お父さんに相談。
その時、お父さんがイジメられた時はこうしろ!というデモンストレーションをしてくれたそうです。その時のイジメ役を演じてくれたお父さんの言葉が怖くて、さらにお父さんの事が怖くなってしまったとのこと。
しかし、自分で乗り越える大切さ、自分で何とかした方が良い、という意識を持ち始めたのは、この時からだそうです。

————————————————-
☆長谷川家一族について
————————————————-
母方のご祖父様は台湾から日本に来られて事業を興された方。
ということは、長谷川夕起さんは台湾と日本のクォータです。国際的です。
父方のご祖父様も自分で会社を経営されており、お父さんもその会社を継がれました。
おじさん、おばさんを見ても自営業で会社員がいない一族なのだそうです。

夕起さんが普通に学校を出て、普通に就職して会社員になったことは、凄く珍しいことで、お母さんのご実家が山あり谷ありの人生だったそうで、この事をすごく喜んでくれました。この事から、自分が普通であることがとても良いことだという考えになったそうです。

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☆中学生(12~15歳)
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中学生の時の自分は、真面目で優等生なのだけども、見た目のコンプレックスがあったとのこと。中学時代の夕起さんは今よりもかなりふっくらとしてしていたそうです。

やがて反抗期が訪れます。そのきっかけとなった事件勃発。ある夜の出来事。お父さんが、お風呂上がりの夕起さんに向かって太っていることを指摘!その日から、なんと1年間お父さんとは口をきかなかったそうです。
この時にお父さんも言い過ぎたな~!と反省されたことを後にお母さんから聞かされたそうです。

その反抗期も高校受験と共に終了します。

————————————————-
☆高校生(16~18歳)
————————————————-
兵庫県立兵庫高校に進学。
中学では優等生だったのですが勉強で挫折。
頑張って勉強しても10段階評価の5か6しかとれず、成績はちょうど真ん中ぐらいだったそうです。この時、妥協すればなんとかなるということを知ってしまったとのこと。このことは逆に精神的にすごく楽になれたそうです。

高校2年の時、母親の勧めでアルバイトを経験、すごく楽しかったそうです。1年間続けて、もう1年続けたかったのですが、高校3年の為、大学受験の勉強をすることに。しかし、この時、自分がやりたいことが無いことに気づく!

周りに合わせて受験勉強し進学へ。

————————————————-
☆大学生・大学院生(19~24歳)
————————————————-
兵庫県立姫路工業大学入学。
入学と同時にひたすらバイト生活に突入。お金を稼ぐ目的はないのだけれど、ただ貯金が好きとの事で、なんと200万円を貯めたそうです。

4回生になると研究室が忙しくなる為、実家を出て下宿生活を始めたいと考え、人生の中で初めて父親に相談。はじめは断られると予想していたのですが、すんなり了承してもえました。父親に自分を考えを直接伝えられたことは、自分の中でハードルを一つ超えた瞬間だったそうです。

4回生から大学院まで、平日は姫路で大学の研究、週末は実家に帰りアルバイトという生活でした。アルバイトは楽しく、仕事が好き、仕事先の仲間が好き、しかもお金が貯まる。最高!とおっしゃっていました。

そして就職の時期を迎えます。
あらてめて考えてみると、まだ自分が本当になにがしたいのかは分からなかったそうです。せめて大学で学んだことを生かせる仕事、かつ、自分が好きなことを選ぼうと就職活動を始めます。

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☆社会人(25~31歳)
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(株)コベルコ科研入社

入社動機は、原子を見ることが出来る研究所がコベルコ科研にあり、その部署に入りたかったとのこと。しかし神戸製鋼所総合研究所へ研修出向になります。そこでは、ただただ必要最低限のことだけをこなしていたそうです。それでも、まわりの人に大事にされて、この時ばかりは自分でも給料泥棒ではないかと思っていたそうです。しかもきっちり貯金をし旅行やダンスなどのプライベートにも注力する毎日を過ごされました。

出向期間が終わりコベルコ科研に戻ります。この頃から自分の将来について見つめ始めます。

将来、家族を持った時に子供にやりたいことをやらせれるだけの余裕を持ちたいと思いました。そう考えると、なにか投資が必要ではないかと考え、株、FX、不動産などいろいろな投資を研究します。その結果、株が良いのではとの結論に。しかし実際初めて、さらに研究していくと株は資産は増やせるけど生活費を稼ぐには向いていないのではということが分かってきたそうです。

この頃、将来の事を考えて投資のことばかり考えていると、日常の仕事では失敗の連続でプレッシャーとの戦いだったそうです。会社ではすごく居心地の悪さを感じ、社外の人間関係の構築を考えるようになりました。セミナー、異業種交流会などに参加するようになります。

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☆本当はどうしたい?
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この頃、改めて自分と向き合ったそうです。

今までの人生は
・嫌われたくない。怒られたくない。
・いい子でいる。
・心配させない。
・自分で枠を設定
・「辛くなるであろうこと」は事前に回避
・波風たてないことが「幸せ」
・高校・大学と進学して就職する・が「できる子」「えらい子」
・安定した生活
・自分らしく生きているようで、何か押し殺して生きてきた。
・我慢な人生
・変化を嫌う人生
・大きな不満はないけれど、大きな満足はない
・逃げていただけ。
と気がついたそうです。

そして、自分が本当にやりたいこと、やれることは何かを模索し始めます。

そして、やりたいことをついに見つける!!!
自分を試したいと思ったそうです。
それは今しかないと思ったそうです。

そして仕事の区切りがついた2016年3月に(株)コベルコ科研退社

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☆今、そして今後のビジョン
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今は
●【way u.うぇい。】(セミナーコンシェルジュ/ヒトプロデューサー)
を本格稼働し
●【so 咲】(社会貢献団体/コミュニティ)
も運営しています。

まず、自分が会社に縛られることなく自立して安心して生きていける実例として先陣を切って進もうとされています。

【way u.うぇい。】ではセミナー・イベント代行業をしています。何か催しを開催したいと思っている人にどの段階からでもフォロー、お手伝いできるそうです。内容がまだ決まっていない場合は内容から、集客に困っている場合は集客から一緒にお手伝いしますとのこと。

【so 咲】は、ここに集う仲間が将来も安心して生活できるように、事業的、経済的にそれぞれ持っているものをお互いに提供しあう、またそこから新たなものも創りだす・助け合いのコミュニティーです。


最後に10年後までのビジョンを発表してもらいました。

※2016年4月を基準。
・半年後(2016年10月)

収入:20万円/月
・4年後(2020年4月)/35歳

収入:50万円/月自己資本:500万円

※2年以内にso 咲の法人化。自己資本:400万円(100万円/人)
・10年後(2026年)/41歳

収入:100万円/月自己資本:2,000万円

so 咲:自己資本:2,000万円(200万円/人)

これからの長谷川夕起さん【way u.うぇい。】【so 咲】の発展・活躍が楽しみであります。

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会場にはご両親も参加されており、今回の「我が人生を語る」は夕起さんからご両親に向けての決意表明の意味も込められておりました。子を思う親の気持ち、親を思う子の気持ちが会場内を包み込み感動的な空間になりました。ありがとうございました。

レポート:中澤良二

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2016年5月24日 第86回木村塾やってみよう会 会合報告

野末隼さん ~不器用だからこそ人生~ フリーパフォーマー「大ドジ芸人 あざーす・のず」

86回_1

1987年9月9日生まれのAB型、現在はショーを中心に生計を立てておられます。

静岡県浜松市引佐町の山間部で生まれ育ちました。 3人兄弟の末っ子で、人の目を気にしながらも、目立ちたがり屋で、おとなしい、そんな子供だったそうです。 小学校は、全校生徒100人にも満たない学校で、 自然豊かなところでした。 祖父に手品を見せてもらい衝撃を受けます。 教えてもらっては人前で披露してました。 中学は山を登り、山を下る通学でした。 剣道部に所属。 この頃はモノマネをよくしていました。

高校は国際経済科に入学。アーチェリー部に所属。 引退後、お笑いにハマり、休み時間にネタをしていました。 いじられキャラとして苦悩するも、人前で芸を披露することの面白さを感じていました。 大学は、愛知県にある日本福祉大学に入学しました。 4年間下宿しました。 1年目は自由に憧れ、遊び続けました。 そして大道芸サークルに所属します。 2年ではアルバイトと恋に明け暮れました。 3年では福祉先進国のスウェーデンに行きました。 自分を見つめなおし、大学の講義に専念するようになります。 4年になり、早々に内定も出て、やりたいことに没頭しました。 ある本に出会ったのがきっかけです。荒川裕二さんの著書『半ケツとゴミ拾い』。 大道芸をやっていこうと思いました。 また、本に見習い、毎日ゴミ拾いをしました。 やりだすと輪が広がり、人を呼び、そして最終的には表彰されました。

86回_2

大学卒業後、福祉事業団に新卒入社。 しかし、理想と現実のギャップがありすぎたのと、 夢をあきらることができず、入社1カ月で退職願を申請。 研修期間の半年を終え、退職しました。 その翌日には「お笑いなら大阪だ!」と単身大阪へ。 荒川裕二氏を訪ね、㈲アラカワポーク(ラーメン店舗)にてアルバイトとして働きました。 ここで経営を学びました。 しかし、大阪に来たのは芸をするため。 1年でアラカワポークを辞め、いよいよパフォーマーとしてスタートします。 京橋駅前で大道芸人として働きました。

その後、門真のマジックバーで働く。 そしてそのマジックバーがつぶれ、心斎橋の路上で大道芸をして 投げ銭で生計を立てました。 そして、Mr.オクチ氏に出会い、芸と仕事の幅が大いに広がりました。 徐々に仕事が増えていき、大阪に来て5年、現在はショーの出演と投げ銭で600万円の収入を得られるように なりました。 今後のビジョンは 2年後の2018年に「のずえアートプレイス」を設立。 資本金は100万円でスタートします、この時年商1000万円。 2020年には年商2000万円、2025年には年商5000万円という。

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これまでを振り返り、「芸は身を助ける」ということを、身をもって体験しました。 この芸を通じこれまで助けていただいた皆様に恩返しをしていきたい。

そしてパフォーマーとして伝えたいことがあるとおっしゃいました。 それは、

皆さんがマジシャンや大道芸人を見た時 「器用ですよね。器用だからできますよね!」と言いますよね。 そしてよく言われます。 むしろその逆で「不器用だからできる(やろうと思う)」 向いてないから、才能がないから、できないからやろうと思うしやるんです。 弱点は才能になると思います。 今の「大ドジ芸人」という芸名はまさに自分自身の性格からとっています。 昔から自分にとってコンプレックスだったもののおかげで生活しています。 「自信を持ちにくい」と言われる世の中 自分の好きを見つけやりたいことをやる。 「不器用は才能、苦労は財産」 そんな言葉で締めくくられました。

86回_4

そして、木村会長より 年商を目標にするのではなく、 自己資本(貯金)を目標に据えたほうが良いと アドバイスがありました。 まず目標に据えるのは、自己資本1000万円。 2028年、のずえアートプレイスはこれを目指します。

レポート:堀江かりん

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  • 2016年の予定

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    11/22(火)
    12/20(火)

    すべて、18:30~20:30
    マジックバー手品家梅田店です!
     
    ☆★ 六甲山全山縦走 ★☆
    2016年12月4日(日)
     
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